第249回長野県眼科医会集談会 特別講演

第250回長野県眼科医会集談会を迎えて

名誉会長 三村 昭平

 此の度、信濃眼科同人会が昭和27年2月に長野県眼科医会に改名してから61年が過ぎて、その集談会も250回を迎えることになりました。会が出来た当時を知る人は殆ど居られなくなってしまい、同人会に出られたのは中村道紀先生お1人です。眼科医会になった時に出た人も数人で高齢になってしまい全く世代が変わってしまいました。
 会長になった頃までを振り返って見ると、同人会のときから昭和45年まで信大眼科医局が医会の事務を受け持っていて、私が昭和26年7月に入局すると直ぐにそれを受け持たされました。しかし昭和28年3月の病院火災でそれまでの医会関係の書類もすべて焼失してしまいました。この年の秋、他病院に転出して担当を離れその後のことは他県にいたので、昭和40年に松本へ帰って開業するまでは医会のことは殆ど判りませんでした。
 それから眼科医会のお手伝いをするようになり、第二回の関東甲信越眼科学会に始まり、次いで集談会の演題以外は自分たちでやることになり庶務担当をやることになりました。目の愛護デーが始まり、眼科医会報もやっと第一号が発刊され、佐久の眼の奇病には数年間悩まされ、保険医総辞退なども経験しました。宮沢明政会長の後を追って副会長そして昭和61年に会長をお引き受けすることになりました。その間、関東甲信越眼科学会、会員のための生涯教育、OMA講習会、眼鏡士法案に絡んで日本眼科医会の法人化、上高地での第二十回関ブロ学会のための連絡協議会、眼科専門医制度の等など医会のことが思い出されます。
 会長になった翌年(昭和62年3月8日)第150回長野県眼科医会集談会がやって来ました。日本眼科医会会長有沢武先生、群馬大学教授清水弘一先生をお招きして盛大に記念講演会が行われました。このとき火事で関係書類が焼失し、それまではっきりと記録されて来なかった眼科同人会と眼科医会集談会の記録を整備しました。まだお元気であり、昔から日記を克明に付けておられる宮沢明政元会長とご子息の文明先生が中心になられて立派に纏め上げていただきました。第150回の県集談会の記念号に載せることが出来ました。集談会は今日まで多くのその道の専門の先生方のお話を聞くことにより日進月歩の医学に遅れないように学ぶことが出来たことと会員同士の交流が出来たことは感謝であり喜びです。
創立の頃より四半世紀昔までを懐かしく思い出させて頂き感謝申し上げるとともにこの会のさらなる発展を祈念します。